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学研教室はここから始まりました

教育――それは、私の発想の原点 学習研究社創業者(故)古岡 秀人

学習研究社創業者(故)古岡 秀人 写真

読み書きそろばん

日本は第二次世界大戦後、あの灰燼の中から経済大国として見事に立ち直ることができました。この成果は、いろいろな見方があるでしょうが、アメリカの経営学者ドラッカー氏の言葉によれば、いつにかかって「教育」という言葉につきるということになります。
日本では、ご承知のように江戸時代から教育に熱心で、寺子屋というものが各地にたくさんありました。徳川三百年の歴史、封建制度の枠内において頭角を伸ばしていくためには、一体どうしたらいいか。世襲制度の世の中でしたから、そもそも伸びていく余地がないわけです。伸びていく余地があるとすれば、学問を身につけて学者になる、僧侶になる、あるいは商人として財をなす、というふうに世襲制度の厚い壁を突き破って新しく飛躍し、伸びていく以外になかったのです。教育というものが、いかに大切であるかということが大衆のなかに浸透し、子どもを寺子屋に通わせ「読み・書き・そろばん」というものを習わせていたのです。
明治になって学制が発布されたとき、きわめてスムーズに移行できたのも、このように江戸時代から培われた子弟に対する教育熱が、成功に導いたといっても過言ではありません。以後、今日につながる日本の近代化は、国民全体の教育水準の高さによってもたらされたものといえます。

原点に立ち返って

それでは、今日の日本は、どうなるのでしょうか。もともと何ら資源も持たない国です。人口が多く国土の利用価値は非常に少ない島国です。どうしたらいいのか。――すばらしい資源があります。教育に熱心で勤勉な一億余の国民です。
その反映として、国民の教育水準は、ますます高まり、今や中学卒のほとんどが高校へ進学するようになりました。このこと自体、たいへん結構なことですが、一方において、どうしても学校の授業についていけない子もでてくるというような、いわゆる基礎学力をどのようにして身につけさせるか、ということが大事な問題として提起されてきました。
こうした時代のニーズにそって、私ども学研は、教育の原点ともいうべき「算数・国語の教室」を開設し、子ども一人ひとりの能力に合わせて、公教育を側面からお手伝いしたい、という念願に燃えたった次第です。

忘れ得ぬ母の教え

私事にわたって恐縮ですが、私は数え年五つのとき、筑豊炭田の落盤事故で父を失いました。突如一家の大黒柱を失った母は、七つ、五つ、一つの3児をかかえて炭鉱の選炭婦となり、文字通り身を粉にして働きました。体の芯まで冷えきる真冬の夜、アカギレだらけの手に、真っ赤に焼いた火鉢で黒い膏薬を塗りこむ母の姿に、私は何度涙を流したかしれません。そんな状態でしたから、高等小学校1年の1学期まで通ったあと、私は炭鉱の「坑内給仕」として働き、母を助けました。
その母が、口ぐせのように私をさとした言葉――それは、「おまえは先生になってくれ」でした。世の中では名誉も大事。お金も大事。でも、それよりもっと大事なものは教育だ――これが母の信念でした。母は教育という言葉は知りませんでしたが、「先生になれ、先生になれ」をくり返し、小さな私に教育の大事さを説いたのです。中学に行けなかった私は、『中学講義録』という6冊ものの本をかかえ、山から山を放浪中に、むさぼり読んで勉強しました。表紙がぼろぼろになるまで読み続けました。こうして独学で師範学校に入り、卒業した年に文検(旧制の文部省教員検定試験)の予備試験に通り、翌年に国語と漢文の両方に合格しました。当時、国漢八年(合格するには頑張っても普通8年かかる)といわれたほどの難関でした。昼間は働き、夜勉強する――ややもすれば消えそうになる勉学への情熱の火をかきたててくれたのは、「おまえは先生になってくれ」という祈りにも似た母の言葉だったのです。
私がたった一人で学習研究社をおこし、音と光と文字に挑む教育の総合メーカーをめざして、挑み続け、求め続けているのも、この母の願いを無視しては考えられません。

教育――それは、私の発想の原点なのです。

昭和55(1980)年4月教室開設にあたって

創業者 古岡秀人は、平成6年5月に死去しましたが、
その教育に対する熱意と精神は、
学研教室をはじめ学研のあらゆる部門に、脈々と生き続けております。

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